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極真会館の歴史・概要
極真会館の歴史
極真空手の歴史はまさに大山倍達の歴史である。 創始者 大山倍達 総裁(1923〜1994)は幼少の頃より中国拳法を学び、1939年、松濤館空手の開祖、船越義珍師の門をたたき、その後、剛柔流空手、他の格闘技を研究。 1954年、東京・目白の野天に大山道場を開設、 1956年、立教大学裏のバレエスタジオ跡に道場を移設。この道場がのちの極真会館の前身となった。 |
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1964年、財団法人極真奨学会 国際空手道連盟 極真会館を設立。 その後、世界124ヵ国に1200を超える公認道場を有し、非公認を含めるとその数は1200万を超える会員を有し単独会派としては世界最大にまで発展する。 また、大山倍達 総裁は空手の従来の【寸止めルール】を廃し、【直接打撃制ルール】による大会を開催した。 現在行われている各流派の直接打撃制空手の大会は、このルールが基になっている。 |
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1994年4月26日、数多の人に惜しまれながら大山倍達 総裁、逝去。 しかし、生涯を懸けて作り上げた極真の精神は、今なお世界中で多くの道場生に受け継がれている。 のち、国際空手道連盟 極真会館はいくつかの会派に別れるが 全日本極真連合会は各会派を超えた交流を持ち、極真空手統一を目指すものとして設立された。 |
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極真会館・概要 |
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1923年 7月: | 始祖・大山倍達 生誕(旧東京市) | |
1925年 3月: | 姉を頼り旧満州へ渡航(その後、韓国へと移住) | |
1936年 4月: | 韓国ソウルの小学校に入学。当時より「十八手」の中国拳法を学び、中学2年で初段を取得 | |
1939年 3月: | 日本に戻り、山梨少年航空学校入学 | |
9月: | 松涛館空手・船越義珍師に入門 | |
1941年 4月: | 拓殖大学入学。空手2段を取得。まもなく太平洋戦争により学徒出陣 | |
1945年 9月: | 終戦により復員。東京都杉並区天沼町に「永和空手道研究所」を設立 | |
1946年 4月: | 早稲田大学体育科入学 | |
10月: | 山梨県身延山に山ごもり。昼夜空手の修行に明け暮れる | |
1947年 9月: | 戦後初の全日本空手道選手権(京都・円山公会堂)に出場し、見事優勝 | |
1948年 4月: | 千葉県清澄山に入山。18ヶ月の修行を敢行 | |
1950年11月: | 千葉県館山で牛と格闘対戦すること47度。うち4頭を一撃で撲殺。これにより「牛殺し大山」の伝説が生まれる | |
1951年5月: | 米軍の要請により進駐軍兵士に空手を指導。座間、府中、横須賀など多くのキャンプを廻る | |
7月: | 異種格闘技戦を想定し、柔道の修行を開始。阿佐ヶ谷の曽根道場に入門し、のち四段を取得 | |
1952年 3月: | 全米空手協会に招かれ、初のアメリカ遠征。11ヶ月に渡り、全米32ヶ所で空手の指導とデモンストレーションを披露。この間、プロレスラーなどと真剣勝負に及ぶこと7度。不敗 | |
1953年 4月: | アメリカ再訪。シカゴで牛と格闘し、一撃でこれを撃破。その名を全米に知られることとなるその後、数年にわたり、ヨーロッパ、南米、アジアを歴訪。他流試合をこなしながら空手の普及に努める | |
1954年 5月: | 東京・目白の野天にて大山道場開設 | |
1956年 6月: | 立教大学裏の古いバレエスタジオ跡に大山道場移設。当時の門下生は300人強。この道場がのちの極真会館の前身となった | |
1958年 1月: | 日本で初めての英文による空手技術書「What is Karate?」出版。 海外で大ベストセラーとなる | |
1958年 9月: | ワシントンのFBI本部に招かれ、2ヶ月間空手指導とデモンストレーションを行う | |
10月: | アメリカ・ウエストポイント陸軍士官学校に招かれ、空手指導とデモンストレーションを行う | |
1959年 7月: | 第1回全ハワイ空手道選手権大会開催。大山館長、審判長を務める | |
1960年: | アメリカ、ヨーロッパなど16カ国に計72ヶ所の支部が発足 | |
1963年10月: | 大山道場が手狭になったため、豊島区西池袋において国際空手道連盟極真会館総本部の建設に着手。アメリカ・コネチカット州ハートフォード市で第1回オープントーナメント北米空手道選手権大会開催 | |
1964年 1月: | タイのムエタイが日本空手界に挑戦を表明。当時の空手諸流派はこれを黙殺したが、極真会がこの挑戦を受諾。黒崎健時、大沢昇らが、タイ・バンコクに渡り3戦2勝。極真の名を格闘技界に知らしめた | |
4月: | 国際空手道連盟極真会館の会長に佐藤栄作氏、副会長に毛利松平氏が就任。財団法人極真奨学会の名称を冠する | |
1965年 6月: | 極真会館総本部竣工。国際空手道連盟極真会館正式発足。大山倍達、連盟総裁に就任 | |
1966年 6月: | 大山茂ほか、指導員をアメリカに派遣。ロサンゼルスにて第1回全米支部長会議開催。北米地区連盟設立(責任者:中村忠) | |
8月: | 中近東地区連盟設立。ヨルダン王室に招かれフセイン国王を始め、王室関係者に空手指導を行う | |
1969年 9月: | 東京体育館にて第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会を開催。7000人を超える観客を集める(以後、毎年開催)。他流派に加え、キックボクサー、柔道家などが挑戦するが、極真勢が上位を独占。初代チャンピオンは山崎照朝。 | |
1971年: | 少年マガジン誌上にて、梶原一騎原作「空手バカ一代」連載スタート。爆発的ヒットを記録し、極真空手ブームが巻き起こる | |
1972年10月: | スペインのカルロス皇太子(のちの国王)が来館。名誉3段が贈られる | |
1974年 5月: | 来日中のイラン・シャーラム皇太子夫妻に演武を披露。名誉2段を贈呈 | |
1975年11月: | 第1回オープントーナメント世界空手道選手権大会を開催(東京体育館、観客7000人)。世界36カ国から128名の選手が参加。初代世界チャンピオンは佐藤勝昭。以後、4年に一度開催される | |
1976年 5月: | 極真空手のドキュメンタリー映画「地上最強のカラテ」が封切り。史上空前の大ヒットとなる | |
1979年 7月: | 東京・麻布の旧ソ連大使館において大演会を挙行。この実績がのちのソ連科学アカデミー認定につながる | |
1979年11月: | 大山総裁、ヨルダン王室より勲章を授与される | |
1981年 6月: | 第1回東南アジア選手権大会開催。サウジアラビアのファイサル皇太子来館 | |
9月: | 第1回南米選手権大会開催 | |
1983年 6月: | 旧共産圏で初の大会、第1回ハンガリー選手権大会開催 | |
12月: | ネパールのディエンドラ皇太子来館 | |
1984年 1月: | 大山総裁、ブラジルより文化功労賞を授与される | |
4月: | 大山総裁、田中角栄元首相と対談 大阪にて極真会館初の体重別大会、第1回全日本ウエイト制空手道選手権大会が開催される。 初代王者は軽量級・大賀雅裕、中量級・柿沼英明、重量級・七戸康博 |
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1988年 7月: | 日本の空手水準向上のため、大山総裁が各流派の強豪選手に意識改革をアピール。「極真の全日本大会に出場し、互いに研鑚すべし」と空手界の大同団結を提唱 | |
9月: | 日本の全都道府県に極真会館の支部が設立される | |
12月: | IOCサマランチ会長に書簡を送り、空手、カンフー、テコンドーのオリンピック公会競技参加問題について提案 | |
1990年 6月: | 第7回全日本ウエイト制選手権に正道会館勢がエントリー。角田信朗が4位入賞を果たす。 | |
1992年 6月: | 第9回全日本ウエイト制選手権で、白蓮会館の南豪宏が他流派として初の決勝進出。結果は準優勝 | |
1994年 4月: | 大山総裁、肺ガンのため聖路加病院で死去。享年71歳 | |
1995年 〜: | 大山総裁亡き後、後継者問題を巡り、組織が複数の派閥に分裂。現在、各派閥が独自の活動を行う | |
2001年12月: | 超党派の極真各会派、各道場が集まり極真連合が設立。各派閥の主義主張にとらわれない極真空手の普及を目指す。 | |
2004年 1月: | 第1回極真連合杯世界空手道選手権が静岡にて開催。首都圏以外で初の世界大会となった。 | |
10月: | 極真連合主管の第36回全日本選手権大会が山形で開催。首都圏以外での全日本大会は初 | |
2008年 1月: | 第2回極真連合杯世界空手道選手権が沖縄にて開催。 |